英語で話したとき、吃音が一切出なかった。
日本語では「ぼ、ぼ、ぼくは……」とどもる私が、
「My name is Naoshi」はすんなり言えた。
なぜか。
その答えを教えてくれたのは、
ニュージーランドのホームステイ先にいた4歳の男の子だった。
吃音と17年間向き合ってきた57歳が、
今日はその話を正直に話させてください。
英語で話したら、吃音が消えた

ニュージーランドに来て最初の自己紹介。
「My name is Naoshi. I’m from Japan.」
発音はめちゃくちゃだったと思う。
でも——言葉が出た。
どもらなかった。
最初は信じられなかった。
日本語では確実にどもる「ぼくは」が、
英語の「I’m」になった瞬間、すんなり出た。
偶然かと思って、また話してみた。
大丈夫だ。どもらない。
なぜ英語だと吃音が出ないのか。
その疑問が、頭から離れなかった。
日本では「間違えると怒られる」と体が知っていた

しばらく考えて、一つの仮説にたどり着いた。
吃音の根本は、極度の緊張だ。
では、なぜ日本語を話すときだけ緊張するのか。
答えはシンプルだった。
日本では、間違えると怒られる。
バカにされる。
正解でないとダメだと、ずっと思ってきた。
学校でも、職場でも、人前でも——
「正しく話さなければ」というプレッシャーが、常にあった。
そのプレッシャーが体に染み込んで、
話す前から緊張し、どもっていたのかもしれない。
英語は違った。
どうせ間違える。
発音も文法も、最初からめちゃくちゃだとわかっている。
だから開き直れた。
いい意味で、諦めがついた。
その「諦め」が、緊張を溶かして、言葉を自由にしてくれた。
ニュージーランドは「間違えてもオーケー」文化だった

英語学校でも、ホームステイ先でも、
街の人との会話でも——何度も間違えた。
でも誰も怒らなかった。
バカにしなかった。
間違えた単語を使うと、
「こういうことを言いたいんだね」と優しく言い直してくれた。
ノートに書いて「今日はこれだけ覚えろ」と
笑いながら教えてくれた人もいた。
間違えることが、会話の邪魔じゃなかった。
むしろ間違えることで、会話が生まれた。
間違えてもオーケー。
伝えようとする気持ちがあれば、それでいい。
その文化の空気を吸い込んだとき、
私の体から何かが抜けていく感覚があった。
長年、体に染み込んでいた
「正しく話さなければ」という緊張が、少しずつほぐれていった。
4歳のネイサンが、全てを教えてくれた

ホームステイ先に、二人の男の子がいた。
7歳のフレジャーと、4歳のネイサン。
ネイサンの英語は、文法がめちゃくちゃだった。
単語も間違える。順番もおかしい。
でも——お父さんとお母さんと、ちゃんと会話していた。
笑い合っていた。気持ちが伝わっていた。
その姿を見て、私の中で何かがストンと落ちた。
文法じゃない。正確さじゃない。
伝えようとする気持ちが、言葉を動かすんだ。
4歳のネイサンは、そんなことを知らずに、ただ話していた。
でもその姿が、私が何年もかけて悩んできた問いの答えだった。
間違えてはいけない——
そう思い込んでいたのは、自分だけだった。
ネイサン、ありがとう。
君は私の人生で一番小さくて、一番大きな先生だった。
「間違えていい」は、吃音だけじゃなく人生の話だった

日本を否定したいわけじゃない。
間違いを直すことは大切だ。
正確さを求めることにも意味がある。
でも「間違えたら終わり」という空気が、
どれだけ多くの人の言葉を奪ってきたか。
どれだけ多くの人が、話したい言葉を飲み込んできたか。
私はニュージーランドで、その呪いから少しだけ自由になれた。
吃音は完全には治っていない。
今でも緊張すると出ることがある。
でも「間違えていい」という感覚を体で知ってから、
人前に立つときの構えが変わった。
どもっても、それでいい。
伝えようとする気持ちがあれば、それでいい。
4歳のネイサンが教えてくれたことを、
57歳になった今も、私は大切にしている。
あなたも今、何かを間違えることを恐れていませんか。
間違えていい。
伝えようとするだけで、十分だ。
どんな人も、どんな国も、受け入れる心の余裕——
それが、言葉を、そして人生を自由にする。


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